小泉今日子の実家は厚木のお好み焼き屋!?
歌手・俳優として長年にわたり第一線で活躍してきた小泉今日子さん。
実はそのルーツには、神奈川県厚木市にある“実家のお好み焼き屋”と、個性豊かな家族との深い絆がありました。
本記事では、母と姉が営んでいたお好み焼き屋「メリケン亭」のエピソードをはじめ、芸者出身の母や寡黙な父、姉たちと家族との関係などをまとめました。

小泉今日子さんがどんな環境で育ち、なぜ今のような表現者となったのか。
その原点を、エピソードとともにたっぷりご紹介します。
- 小泉今日子さんの実家は、厚木市にあったお好み焼き屋「メリケン亭」であること
- 芸者出身の母と姉が切り盛りしていた家族経営の店だったこと
- 幼少期から一家離散、父との2人暮らしなど波乱に満ちた家族の物語
- その家族との経験が、現在の小泉今日子さんの価値観や表現活動に与えた影響
小泉今日子の実家は厚木市のお好み焼き屋だった!
小泉今日子さんの実家は、神奈川県厚木市にあったお好み焼き屋だったことがファンの間で語られています。
地元では知られた存在で、母親と姉が切り盛りしていた家庭的なお店だったそうです。
お店の名前や場所、そして家族との温かいエピソードを深掘りしていきますね。
次は、実家のお好み焼き屋の名前や場所について詳しく紹介します。
店名はメリケン亭、場所は神奈川県厚木市
小泉今日子さんの実家が経営していたお好み焼き屋の名前は「メリケン亭」です。
場所は神奈川県厚木市で、最寄り駅は小田急線の本厚木駅。
地元の人なら誰もが知るレベルで有名だったとの声もあります。
ネット上の書き込みでは、タクシーに乗って「小泉今日子の実家」と言えば連れて行ってくれる、という逸話まであるほど。
彼女の母親が中心となって経営し、家庭的な雰囲気と昔ながらの味が人気だったようです。
場所は駅からも近く、アクセスしやすい立地だったといわれています。



次は、実際に店を切り盛りしていた家族についてご紹介します。
母と姉が切り盛りしていた家族経営の店
メリケン亭は、小泉今日子さんの母親とお姉さんが二人三脚で切り盛りしていた家族経営のお店でした。
母はもともと芸者として働いていた経歴があり、気さくで華やかな人柄だったといいます。
そんなお母さんが、お店では厨房に立ち、お好み焼きを焼きながら常連さんと楽しく会話していた姿が印象的だったようです。
そして、姉も一緒に店を支えながら、家族の味と雰囲気を守っていたとのこと。
お店には、地元の人やファンが訪れることもあり、まさに「地域の人たちに愛される店」として知られていました。
小泉今日子さん自身は店には出ていませんでしたが、家族の頑張る姿を見て育ったことが、芸能界での強さにもつながっているのかもしれませんね。



次は、実家のお店がどれほど有名だったのかをお伝えします。
本厚木で言わなくても連れて行ってくれるほどの有名店だった
メリケン亭は、本厚木の地元では知らない人がいないと言われるほど有名なお好み焼き屋でした。
「住所を言わなくてもタクシーが連れて行ってくれる」という話があるくらい、多くの人に愛された存在だったようです。
店内には芸能人のサインが飾られていたわけではなく、派手な装飾もなかったとのことですが、その分だけ素朴で温かい雰囲気が魅力でした。
常連客が多く、口コミだけで人気が広まったことからも、店の実力がうかがえます。
ただし現在は母親も長姉も亡くなられており、営業していない可能性が高く、詳細な閉店時期についての情報は確認されていません。
それでも、メリケン亭の思い出は今もファンや地元の人々の記憶に残り続けていることでしょう。



次は、小泉今日子さんの家族構成や、父・母・姉との関係について詳しく見ていきましょう。
小泉今日子の家族構成まとめ|父・母・姉たちとの関係性とは?
小泉今日子さんの魅力のルーツには、ちょっとユニークで深い家族関係があります。
父、母、そして2人の姉とともに過ごした日々が、現在の彼女の人間性や表現力を育んできたのかもしれません。
ここでは家族構成と、それぞれの家族との関係性についてひとつひとつ掘り下げていきます。
まずは、小泉今日子さんの基本的な家族構成から見ていきましょう。
小泉今日子は三姉妹の末っ子!家族構成を紹介
小泉今日子さんは三姉妹の末っ子として、神奈川県厚木市で育ちました。
家族構成は、父・母・姉2人と小泉今日子さんの5人家族です。
長女とは8歳離れていて、幼い頃は長女のことを本当の母親だと勘違いしていたというエピソードも語られています。
次女とは2歳差で、歳が近いこともあり一緒に過ごす時間が多かったそうです。
家庭内はドライな関係だったと本人は語っていますが、それが逆に心地よく、干渉し合わない関係性が自分に合っていたとも明かしています。
それぞれの距離感を保ちながらも、ちゃんと支え合っていた小泉家。
そんな空気感が、彼女のナチュラルで飾らないキャラクターにつながっているのかもしれません。



次は、小泉今日子さんのご両親について詳しく紹介します。
両親はお洒落で自由な母と、静かで知的な父
小泉今日子さんの母親は、とてもお洒落で自由な感性を持った女性でした。
サイフォンでコーヒーを淹れたり、細いタバコを吸ったり、毎日喫茶店でインベーダーゲームを楽しむような、ちょっと型破りな存在だったそうです。
子育てに関しても、いわゆる「世間の母親像」とは少し違い、どこか浮いているような独特の距離感を保っていたと語られています。
小泉今日子さんの父親は静かで理知的なタイプで、カセットテープを作る小さな会社を経営していたそうです。
新聞を丁寧に読んでいて、知識が豊富で、何を質問してもしっかりと答えてくれる頼れる存在でした。
でも、お酒が入ると少し感情的になってしまう面もあり、家ではやや内弁慶なところがあったようです。
母と父は対照的な個性を持っていて、それぞれが家庭内で独自の役割を果たしていました。
その両極端な親の間で育ったことが、小泉今日子さんの多面的な魅力につながっているのかもしれません。



次は、そんな両親に囲まれた小泉今日子さんが、2人の姉とどのように過ごしてきたのかをご紹介します。
それぞれ違った個性を持つ2人の姉たちとの関係
小泉今日子さんには2人の姉がいます。
長女とは8歳離れていたため、幼い頃は「この人がお母さんだ」と錯覚していた時期もあったそうです。
実際、長姉は小泉今日子さんに裁縫道具を持たせてくれたり、成人のタイミングで真珠のネックレスやピアスをプレゼントしてくれるなど、まるで母親のように接してくれていたといいます。
その長姉はすでに他界していますが、今日子さんの中では今も特別な存在として深く刻まれているようです。
次女とは年齢が近く、少しヤンチャな一面もあったとか。
ファッションや音楽の趣味がはっきりしていて、いつも自分の好みを貫いていたという一面があったそうです。
それに比べて、小泉今日子さんはいつも迷ってばかりで決められないタイプ。
そんな自分を見守ってくれた姉たちに、感謝の気持ちを何度も語っています。
干渉は少なくても、芯の部分で強くつながっていた三姉妹。
その関係性は、小泉今日子さんの中にずっと息づいているようです。



次は、母との思い出と、お好み焼き屋を開いた背景について深掘りしていきます。
母との思い出とお好み焼き屋の記憶
小泉今日子さんにとって、母との関係はとてもユニークで、どこか映画のワンシーンのような記憶として残っているようです。
幼少期の印象や、お好み焼き屋を開くまでの背景、そして晩年の介護まで、彼女の中で母はずっと特別な存在でした。
ここでは、そんな母との思い出を辿りながら、お好み焼き屋と家族の絆について紐解いていきます。
まずは、芸者としての経歴を持つ母が、どのようにして店を持つようになったのかを見ていきましょう。
芸者出身の母が店を持つようになった背景
小泉今日子さんの母は、もともと厚木の飯山温泉で芸者として働いていた過去があります。
その後、結婚して主婦となり、三姉妹を育てながら家庭を支える日々を送っていました。
ところが、父が経営していた会社の経営が傾いたことで、生活に変化が訪れます。
借金取りが家に来るような状況を避けるため、母と三姉妹は父と離れて暮らすことに。
そのとき、母は昔の芸者仲間が経営するスナックで働き始め、やがて自分でも店を持つようになったのです。
お好み焼き屋を開いた明確な時期は不明ですが、水商売や飲食業に自然と適応していったのは、母が持っていた人との距離の取り方や、華やかな接客術があったからこそ。
家族を守るために、自ら新しい道を切り開いたその姿に、小泉今日子さんは今でも尊敬の気持ちを抱いているようです。



次は、母が立ち向かった水商売の現場と、家族を支えた日々について見ていきます。
家族を支えた水商売の世界
母が働き始めたのは、昔から付き合いのあった芸者仲間が営んでいたスナックでした。
そこでの仕事は、家庭を支えるための手段であると同時に、母自身が本来持っていた華やかさや社交性を発揮できる場所でもあったようです。
やがて、母は自分の店を持つようになります。
当時はまだ珍しかった、女性ひとりで切り盛りするお店。
でも、芸者時代からの人脈や、抜群の人当たりの良さがあった母にとっては、ごく自然な流れだったのかもしれません。
母が本当に心を開いていたのは、同じ水商売の世界にいる人たちだったと、小泉今日子さんは振り返ります。
近所の主婦や学校のママ友よりも、美容師さんやスナックのママたちといるときのほうが、生き生きしていたそうです。
家庭ではちょっと不器用だったかもしれませんが、水商売という世界で母は自分らしくいられたのだと思います。
そんな母の背中を見ながら、小泉今日子さんは「自由に生きること」「世間の枠にとらわれないこと」を自然と学んでいったのかもしれません。



次は、母との別れのとき、小泉今日子さんがどのような想いを抱いていたのかをご紹介します。
晩年、母の在宅介護と見送りに込めた娘の想い
小泉今日子さんの母は、晩年に体調を崩し、圧迫骨折や脳梗塞を経験しました。
病院での対応に疑問を感じた姉と小泉さんは、母の尊厳を守るために在宅介護を決意します。
入院中、母は特殊な入れ歯を外され、話すことも食べることもできない日々が続いたそうです。
その様子を見た姉の怒りと悲しみ、そして小泉さん自身の覚悟が重なり、退院を決断。
実家での在宅看護が始まりました。
点滴での栄養補給をしながら、家族が交代で付き添い、静かに寄り添う時間が続きました。
叔母や姪っ子など親族も多く集まり、毎日誰かが母のもとを訪ねてくるような日々。
小泉今日子さんも仕事をセーブし、夜は母の隣で過ごす生活を送りました。
笑顔で、穏やかに、ありのままを受け入れながらお別れまでの時間を丁寧に刻んだことが伝わってきます。
このときの体験が、小泉さんの人生観や人との向き合い方に深い影響を与えたのは間違いありません。



次は、一家離散を経て始まった父との2人暮らしについてご紹介します。
一家離散と、父との「3人暮らし」
小泉今日子さんの人生には、思春期に迎えた大きな転機がありました。
家族の事情から一家が離れて暮らすことになり、彼女は父と2人で暮らす日々を選びます。
この時期、普通なら寂しさを抱えそうなものですが、小泉さんにとってはどこか冒険のような、自由で楽しい時間だったと語られています。
ここでは、家族が離れたあとの生活と、父との絆について深掘りしていきます。
中学2年で母と姉たちと別居、父と2人+猫の生活
小泉今日子さんが中学2年生のとき、父が経営する会社の経済的な問題をきっかけに、母と姉たちは別の場所へ引っ越すことになります。
そんな中、今日子さんだけは父と一緒に住むことを選びました。
理由は学校への通いやすさや、友達との関係を考えてのことだったそうです。
とはいえ、2人だけの生活は決して孤独ではありませんでした。
一緒に暮らしていた猫も含めて、「父と娘と猫」の3人暮らしが始まります。
ときには父と自転車で外食に出かけ、後ろから猫が必死に追いかけてくるという、まるで映画のような日常。
帰宅すると玄関先で猫がじっと待っている――そんな光景が、彼女の記憶に強く残っています。



次は、その暮らしがどんなふうに「面白さ」に満ちていたのかを見ていきましょう。
冒険のような日々、寂しさよりも面白さ
家族と離れて父と2人で暮らすことになった小泉今日子さんですが、そこには悲壮感や寂しさはほとんどなかったといいます。
むしろ、自由で刺激的な冒険のような日々だったと語っています。
父は無口で几帳面なタイプ。けれど、今日子さんに対してはある程度の自由を与え、必要以上に干渉することはありませんでした。
学校をサボりたい時には、あらかじめ欠席届にハンコを押してくれていたというエピソードも残っています。
また、父との外食では二人乗りの自転車でとんかつを食べに行ったりと、どこかユニークで、温かみのある日常があったようです。
その後を必死で追いかけてくる猫の存在も含めて、3人で築いた生活には、決して裕福ではないけれど確かな楽しさがありました。
親戚や近所の人々も温かく見守ってくれ、江戸の長屋のようなコミュニティの中で支え合う空気があったことも、孤独を感じさせない大きな要因だったのでしょう。
こうした経験が、小泉今日子さんのどこか人に頼らず、自分で人生を面白がるというスタンスを形作っていったのかもしれません。



次は、そんな父との絆についてさらに深掘りしていきます。
キョンキョンが語る父との絆
父と2人で暮らす中で、小泉今日子さんは父との関係に独特の距離感と深い信頼を築いていきました。
父は多くを語らず、感情をあからさまにするタイプでもありませんでしたが、その無言の優しさが今日子さんの心に強く残っているといいます。
小学生時代、授業参観で跳び箱の前転に挑戦し失敗してしまったときのこと。
恥ずかしさでいっぱいになりながら父の方を振り返ると、すでにその場を立ち去っていたといいます。
最初は驚いたものの、あとから思えば、それは父なりの思いやりだったのかもしれません。
また、家庭ではお酒を楽しみ、新聞をじっくり読む静かな父。
晩酌の時間にはまず父に料理を出し、テレビのチャンネル権も父が握っていたという、今では少し懐かしい家族の形もありました。
一方で、外では全く酒癖が悪くなかったことが、葬儀のときに仕事関係者から伝えられたそうです。
つまり、父は家庭の中でだけ素の自分を見せていた、内弁慶な人。
そんな父の姿に、今日子さんはどこか共通点を感じていたようです。
何も言わなくても通じ合う関係。



それが、今日子さんと父との間にあった、静かで深い絆だったのかもしれません。
小泉今日子の現在に実家と家族が与えた影響
芸能界の第一線で40年以上活躍し続けてきた小泉今日子さん。
その芯の強さや感性の深さの裏には、実家での経験や家族との関係が大きく影響しています。
母との別れ、父との2人暮らし、三姉妹の絆…。
一見ドライに見える家族のかたちの中にも、温かなつながりがあったことが、現在の彼女の生き方や作品に反映されているのかもしれません。
長姉・葉子さんとの別れが残した深い想い
三姉妹の末っ子として育った小泉今日子さんにとって、長姉の葉子さんは特別な存在でした。
年が8歳離れていたこともあり、幼い頃は母親のように感じていたこともあったそうです。
裁縫セット、真珠のアクセサリー、着物の小物など、大人の女性に必要なものを一つずつ用意してくれたのも、母ではなく長姉でした。
そんな長姉が病に倒れ、静かに旅立ったのは2014年のこと。
家族だけで密葬を行い、世間に公表することなく見送ったといいます。
心の支えだった存在との別れは、小泉さんにとって非常に大きな喪失体験だったはずです。
それでも、長姉がしてくれたたくさんのこと、与えてくれた愛情が、今もなお彼女の中に生き続けています。



この別れを経て、小泉今日子さんは「自分が誰かの支えになりたい」と、人生を見つめ直すようになったと語っています。
帰れる場所をつくりたい 実家再生の願い
母の最期を看取ったあと、小泉今日子さんの中に芽生えた思いがありました。
それが、実家を「帰れる場所」としてもう一度整えたいという願いです。
かつては家族5人で暮らした家。今では誰も住んでおらず、静かに時間が止まっている場所になってしまいました。
しかし、母の介護を通じて多くの親族や親しい人々が集まってきた経験から、あの家には再び人を迎え入れる力があると感じたといいます。
叔母、姪、姪の子どもたち、そして地域の人々が訪れてくれた日々は、小泉さんにとって忘れがたい時間となりました。
「落ち着いたら少し手を入れて、みんなが集まれる場所にしたい」
そう語る彼女の言葉には、過去を懐かしむだけではない、前向きな意思が込められています。
芸能という忙しい世界の中に身を置きながらも、心のどこかにはいつも「厚木の実家」がある。



それはただの故郷というだけでなく、家族の歴史が染み込んだ、心の拠り所なのでしょう。
家族に導かれた人生 今の活動にどうつながっているか
小泉今日子さんの芸能人生は、家族の中で自然に育まれた感性や価値観に強く影響されています。
オーディションに応募したのも、クラスメイトに勧められたことがきっかけであり、自身は「決められない子だった」と語るほど。
けれども、そんな自分を見守り、時に背中を押してくれたのが、母であり、姉であり、父でもありました。
母は常識にとらわれず、好きなものを貫く人。
父は無口ながらも、自由を与えてくれた存在。
そして姉たちは、大人になるための知恵やセンスを自然と教えてくれた存在でした。
その影響は、今の彼女の活動にもつながっています。
自ら立ち上げた制作会社でプロデュース業を手がける姿勢、舞台や映画の世界で新しい表現に挑む姿、どれもが自分の信じる道を歩むという母譲りの美学と、家族への感謝が根底にあります。



小泉今日子さんが今も多くの人に支持される理由は、こうした家族との関係が育てた人間力にあるのかもしれませんね。
まとめ|小泉今日子さんの実家と家族に秘められた人生の原点
小泉今日子さんの生き方や価値観には、厚木の実家での暮らしや家族との関係が深く影響していることが分かりました。
この記事のポイントをまとめます。
- 小泉今日子さんの実家は、神奈川県厚木市にあったお好み焼き屋「メリケン亭」
- 店は母と姉が切り盛りしており、本厚木では知られた存在だった
- 小泉さんは三姉妹の末っ子で、父・母・2人の姉との独特な関係性の中で育った
- 母は芸者出身で自由な感性の持ち主。父は無口で知的な存在だった
- 長姉は母親代わりのような存在で、深い愛情を注いでくれた
- 中学2年で一家が離散。以降は父と猫との3人暮らしが始まる
- 寂しさではなく「面白さ」に満ちた日々が、小泉さんの個性を育んだ
- 晩年、母を在宅介護で見送った経験が、人生観に大きな影響を与えた
- 実家を再生して「帰れる場所」をつくりたいという想いを語っている
- 家族に導かれて選んできた道は、現在の活動や価値観につながっている



長く芸能活動を続け、その人柄にも大きな魅力のある小泉今日子さん。
これからもご活躍を願っています!
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